競馬史年表

日本の競馬、特に中央競馬会(JRA)を中心とした歴史を記します。競馬創成期から国際化に至るまでざっくり。

日本競馬創成期(江戸~昭和初期)

日本競馬は江戸時代末期に西洋人向けの娯楽として競馬が行われたことにより、西洋文化を輸入する形で始まる。以降は上流階級の交流の場、つまりは西洋かぶれのお金持ちの道楽という形で行われてきた。

その後、日本が近代化されていく過程で先進国である欧米に倣う形で国が競馬の浸透を推し進める。その後、軍馬の育成を目的とする陸軍の後押しもあり、競馬法が成立される。国の資金調達の手段として馬券の発売を始める。レース体系も競馬の本場英国に倣い、ダービーをはじめとするクラシックレースが、帝室御章典(現在の天皇賞)が創設される。競走馬生産は官民挙げてイギリスやアメリカから種牡馬や繫殖牝馬を輸入し生産していた。

主要レース

  • 東京優駿大競争(日本ダービー) (1932年)
  • 大障害碍特別競走(中山大障害) (1934年)
  •  帝室御賞典(天皇賞)      (1937年)
  •  阪神優駿牝馬(オークス)    (1938年)
  • 京都農林省賞典四歳呼馬(菊花賞) (1938年)
  • 中山四歳牝馬特別(桜花賞)   (1939年)
  • 横浜農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)(1939年)

当時からイギリスやアメリカから繁殖馬を輸入し、サラブレッドを生産していた。

戦後の競馬

戦時中は馬券の発売も停止、競走馬も戦時徴用されるなどした為、能力試験競走という形でこじんまりと行われていた。戦後は各競馬場はアメリカにより接収される。その後は復興に伴い農林水産省の元で本格的に復活。しかし競走馬の数も足りず開催に苦慮することになった。みんな貧乏な時代でもあったのでコストのかかる競馬に対する反対意見も多かった。

1954年に新しい競馬法が制定され、国営競馬から日本中央競馬と民営化され、これが現在のJRAになる。以降は高度経済成長を背景に右肩上がりの成長を遂げる事になる。

この時代は各競馬場に厩舎がありそこで調教を行いながらレースを行っていた。現在の地方競馬のような方式である。その為、各競馬場の所属同士でライバル意識があり、大レースの誘致についても各競馬場が目玉レースを創設しようと画策していた。その一つが有馬記念や宝塚記念である。

主要レース

  • 朝日杯3歳ステークス(朝日杯FS)(1949年)
  • 阪神3歳ステークス(阪神JF)  (1949年)
  • 安田賞(安田記念)       (1951年)
  • 中山グランプリ(有馬記念)  (1956年)
  • 宝塚記念           (1960年)

トレーニングセンター開場

当時は日本の交通網が貧弱であったため、競走馬の輸送にも苦慮していた。その為に大レースでは地元の馬が有利であり、ダービーや有馬記念などを勝ちたい馬主は関東に馬を預けるのが当たり前であった。つまり関東の競走馬の方がレベルが高く、関西馬が弱いというのが常識であった。それを打破するために滅茶苦茶凄い調教施設を作って関西馬を鍛え上げようというコンセプトで作られたのが栗東トレーニングセンターである(1969年)。これに対抗するために関東も美浦トレーニングセンターを作った(1978年)。こうして各競馬場に設置されていた厩舎はトレーニングセンターに集約されるようになった。この2つのトレーニングセンターが出来てからは徐々に関西馬が復権しだし、1990年以降は関西馬の方が優勢になる。美浦トレセンだめじゃん。

今では考えられない昭和競馬の常識

国際化とグレード制導入

日本の競争馬は当時の番組編成では古馬のチャンピオンになった後に出るレースがほとんどなかった。その為大レースを求めて海外遠征に出かける事も多かったが、残念ながら当時の日本馬では全く歯が立たなかった。そこで日本馬のレベルアップを目的に1981年にジャパンカップが創設される。出走馬は日本の当時の一流馬と海外の2流以下の馬達。しかし地元の利があっても結果は海外馬が1~4位まで独占するという日本馬の大惨敗であった。

この結果があったかどうかは不明だが、長距離に偏重していた古馬の番組編成もテコ入れするために1984年にグレード制を導入。現在のようにグレード制となり番組編成が大改革された。おかげで古馬になって出走するレースのほとんどなかったマイル戦を得意にする馬は目標が出来て大喜び。以降もその時代に併せて重賞を創設したりグレードを昇格、降格していく事となる。

主要レース

  • エリザベス女王杯       (1976年) 
  • ジャパンカップ        (1981年)
  • マイルチャンピオンシップ   (1984年)
  • スプリンターズS        (1967年創設→1990年G1昇格)
  • 阪神3歳牝馬S(阪神JF)    (1991年牝馬限定重賞へ)

平成時代

バブルの時代から武豊やオグリキャップの登場などで競馬人気が爆発、それ以降もダービースタリオンの発売などがあり平成の初期は空前の競馬ブームとなっていた。馬券の売り上げも1990年からの10年間がピークとなっており、以降は右肩下がりとなっている。ウマ娘の主力メンバーの大部分はこの時代の馬がモチーフになっていることからもその影響力は理解できるだろう。

日本馬のレベルが飛躍的に上がったのもこの頃であり、それ以前はシンボリルドルフなどの超名馬しかジャパンカップで勝負にならなかったが、1990年代に入るとコンスタントに日本馬が勝つようになり、今では日本馬しか勝たないため外国馬が来なくなってしまった。逆に海外遠征して日本馬が勝ちまくるようになったのも1998年以降である。

理由としてはサンデーサイレンスの輸入と海外の競争馬の大量輸入であろう。バブル景気に沸いた日本は海外の良血の種牡馬や繁殖牝馬、競争馬を買いまくっていた。また、レース体系もスピード重視となり海外競馬にスピード負けしないようになっていた。調教技術も継続して海外の最新の技術を取り入れ、海外遠征も積極的に行うことにより海外とのレベルの差を着実に縮めていた。それが花開いたのがこの名馬の時代である。

主要レース

  • NHKマイルC                (旧NHK杯が1996年にG1昇格しマイル戦に)
  • 秋華賞                   (1996年)
  • 高松宮杯(高松宮記念)           (1996年)
  • フェブラリーS               (1997年にG1に昇格)
  • ジャパンカップダート(チャンピオンカップ) (2000年→2015年よりレース名変更)
  • エリザベス女王杯              (1996年に3歳限定から3歳以上に変更)
  • ヴィクトリアマイル             (2006年)
  • 大阪杯                   (2017年よりG1に昇格)
  • ホープフルS                (旧ラジオたんぱ2歳牝馬S→ラジオNIKKEI賞2歳S→2017年にG1昇格)

日本が国際パート1に認定

平成の名馬の時代以降、国際G1を日本馬がコンスタントに勝利していった為、とうとう2007年に日本が国際競馬のパート1国に認定される。これがどういう事かというと国際競馬の中で主要国として認められたという事である。つまりは日本の競馬は世界の最先端の国という事が国際的に認められたのである。以降は日本(JRA)のG1は全て国際G1扱いされ、それ以下の重賞もJRAの認定する格付けが国際標準となるわけある。実際は違うけどだいたいそんな感じなのである。

以下、現代競馬に続く

名馬年表

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