キーストンのライバルで大金で買われたけどダービー馬になれなかった馬ダイコーターの物語です。知名度はあまりありませんが、これほど波乱万丈な馬生を歩んだ馬はあまりいません。まとめてみましたのでどうぞご覧ください。
ダイコーターのプロフィール
- 父:ヒンドスタン
- 母:ダイアンケー(母の父:Lillolkid)
- 主戦騎手:栗田勝
- 調教師:柴田不二男→上田武司
- 馬主:橋元幸吉→上田清次郎
- 生産者:鎌田牧場
- 1961年6月8日生まれ 牡馬
シンザン三冠の翌年のダービー最有力候補。ダービー直前に電撃移籍した名馬。
父であるヒンドスタンはシンザンの父でもあり当時のリーディングサイアー。ヒンドスタン産駒というだけでクラシックの有力馬とされるくらい8大競走を勝ちまくった。シンザンやダイコーターをはじめ8大競走勝馬は13頭で19勝、重賞113勝はサンデーサイレンスが現れるまでは最多である。
母ダイアンケーはアメリカ生まれで日本で競走馬として走り11戦8勝。短距離戦で活躍した。そのためか他のヒンドスタン産駒と比較して悍性が強かったらしい。全兄のユキロウが全日本3歳優駿(現地方Jpn1)とスプリングSを勝利している。
柴田不二男は1959年開業で中京所属の若手調教師。大レースは勝てなかったが晩年にはライブリマウントで第一回のドバイワールドカップに出走させるなど息の長い活躍だった。
馬主の橋元幸吉はシンザンの馬主。おそらくヒンドスタン産駒が好きなのだろう。そのおかげで2年連続ダービーの有力馬を持てる馬主運の強いお方である。
デビューからクラシック前まで
特に逸話は残っていないがデビュー戦から一貫して栗田勝が乗り続けているので、早くから素質は高く評価されていたのであろう。シンザンをはじめとする関西の名馬の背中を知る彼は、他の名馬と比べても遜色ないと手ごたえを感じていたと思われる。
京都のデビュー戦をぶっちぎった後は、ライバルとなるキーストンと初の顔合わせとなり、1番人気を奪うも乾杯してしまう。なお2着のベロナはソロナウェー産駒の翌年のオークス馬である。血統的にもヒンドスタン産駒のダイコーターは短距離を得意とするソロナウェー産駒の有力馬には1200mの距離では歯が立たなかったのも仕方ない。ただし、デビューから3連勝してうち2回がレコードタイムのキーストンよりもダイコーターの方が一番人気になる程度にはダイコーターは将来有望視されていたことがわかる。
次走の芝1600m戦と年明けのダート1700mのオープンと初重賞となるきさらぎ賞まで3連勝。勢いに乗っていざ東上、先にクラシックの有力馬となっていたキーストンに挑戦状をたたきつける。電報という形で直接的に。こうして2頭のクラシック対決が開戦されるのであった。
クラシック戦線
クラシック時代は上記リンクを参照
トレード後
ダービーの有力馬となったダイコーターはダービー直前に橋元幸吉から上田清次郎に2500万円で金銭トレードされてしまう。そして肝心のダービーはキーストンに負けてしまった。プライドをかなぐり捨てて大枚はたいて恥を描いた上田はこの後ダイコーターを活躍させて少しでも回収しようと考えるのは当然であろう。幸いにもダービー2着後は菊花賞を制覇したため、既に1650万円は回収済みである。あとは天皇賞(当時800万円)を勝てばトレードに使った費用はほぼ回収できる算段だった。
しかし菊花賞後の阪神大賞典でチトセオーに負けてからはどうにも歯車が狂ってしまう。続く日本経済新春盃、中京記念、スワンSと人気(と酷量)を背負うも惨敗してしまう。本番の天皇賞でも斤量が軽くなるので少しは走りやすくなるかと思われ、3番人気に支持されるも、2番人気のキーストンと共に惨敗。勝ったのはハクズイコウ、2着はシンザンのライバルウメノチカラと世代交代にも完全に失敗してしまう。キーストンダイコーター世代弱いなとこの時の世間の評価だったであろう。なおこの頃は喘鳴症、つまり喉なりの症状が出ていたため不振に陥っていたのだといわれる。
立て直しを図るためにこの年の秋まで休養し、オープンを使うもあっさり負けたためにさらに休養に入る。
翌年の夏に上田の地元小倉でメンバーも斤量も軽いオープン競走に出走し復活の2連勝を挙げるが、肝心の小倉記念では1番人気に推されながらも3着と勝てず、その後も重賞戦線に顔を出すも往年の輝きはなく敗戦する。
これでは念願の天皇賞に出走するのも憚られると、二度と挑戦する事は無かった。空しくも赤字だけが残ってしまう。
天皇賞を勝つことは無理だと悟った陣営は、ダイコーターに新たな目標を設定する。それは障害入りして中山大障害を制することだ。当時の中山大障害は賞金450万円、天皇賞よりは安いが十分に高額である。
障害入り後
8大競走勝馬が障害を走るなんてとんでもない、権威を下げる行為だ。当時の人はそう考えていた。折りしも終生のライバルキーストンは不慮の事故でターフを去っていただけに、ダイコーターに危険な障害レースを走らせるなんてという意見もあったであろう。しかし残念ながら競走馬は馬主の持ち物である。少しでも馬主にお金を還元するためにダイコーターは障害を走る事となる。
年明け6歳(旧7歳)で走る障害戦は菊花賞馬というネームバリューもあり圧倒的な一番人気に推される。肝心のレースの方は他馬とはエンジンの違いを見せつける平地力で突き放しては、まるで素人のような飛越で追いつかれるというある意味エキサイティングなレースをしてくれた。未勝利戦こそ勝ったものの大目標となる中山大障害に挑むには飛越が下手すぎるということもあり4戦しただけで現役引退となる。トレード後に稼いだ賞金は障害戦を含めて2500万円に僅かに届かない程度と、ダービーは買えなかったがダイコーターはよく頑張った。引退後は種牡馬となる。
種牡馬入り後の意外な活躍
上田清次郎は北海道の白老に牧場を構えていた為、引退後のダイコーターはここで種牡馬となり、産駒達に念願のダービー制覇を託すこととなる。しかしこの頃は輸入種牡馬の全盛期、ダイコーターも引退する時のイメージが悪かったために上田牧場のプライベート種牡馬という扱いであり、ほとんど期待もされていなかった。
しかし初年度産駒からホウシュウリッチが牝馬ながら神戸新聞杯を制覇し、2年目産駒のホウシュウミサイルがクラシック戦線を戦った後金鯱賞と小倉記念を制覇する。あれ?ダイコーターって種牡馬として優秀じゃない?と思ったのは西山牧場、セイウンスカイやニシノフラワーの故郷の牧場である。繁用先を西山牧場に移してからもニシノライデンやキタノリキオーなどの活躍馬を多数輩出、リーディングランキングは最高で4位と内国産不遇の時代でありながら大成功といっていい成績を収める。西山牧場はこの頃に失敗種牡馬を多数抱えており、ダイコーターはまさに救世主といった扱いだったそうな。
その子孫からも、なんでこの馬が種牡馬にといわれそうなブゼンダイオーからオークス勝馬のコスモドリームが出し、母の父としては有馬記念で大穴を演出するダイユウサクや、中山大障害などを勝利する名障害馬ケイティタイガーを輩出。数は少ないながらも血統表にしっかりと存在感を出していた。
晩年は種牡馬を引退後も西山牧場の功労馬として大事にされながら、1987年1月に老衰のため死亡する。波乱万丈の馬生ながら精一杯生きて結果を出したハッピーエンドと言えるだろう。
結局、上田清次郎はダイコーターの後も結局ダービーを制することはできなかった。金で名誉は買えないということである。
ウマ娘になるなら
スピード | スタミナ | 10% | パワー | 根性 | 20% | 賢さ | ||||
馬場適正 | 芝 | A | ダート | D | ||||||
距離適性 | 短距離 | D | マイル | A | 中距離 | B | 長距離 | A | ||
脚質適正 | 逃げ | G | 先行 | A | 差し | A | 追込 | D |
キャラ
シンザンと同父同馬主同主戦騎手ということもあり、序盤はシンザンを目標とするウマ娘の一人でキーストンというライバルも現れる無難であまり個性のない主人公タイプとして描かれる。順調に成長してダービーの有力ウマ娘となるが、直前にダービートレーナーの栄誉だけ欲しい大物トレーナーに金を積まれてトレーナーが交代となる。そのショックでダービーでは実力を発揮できず、ライバルのキーストンの後塵を喫してしまう。その後は菊花賞でなんとか雪辱するも目標を達成できなかったトレーナーからは酷使と言って差し支えないような酷い扱いを受けるようになっていき最後は闇落ちしてしまう。という感じのドロッとしたストーリーのウマ娘が作れそうです。いろいろと捗りそうでキーストンとセットでの実装が待ち望まれますね。
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