天馬トウショウボーイ

名馬

天馬と称されTTGC世代においても最強、種牡馬としても内国産トップクラスと完璧な名馬トウショウボーイさんについての記事です。

トウショウボーイのプロフィール

  • 父:テスコボーイ
  • 母:ソシアルバターフライ(母の父:Your Host)
  • 主戦騎手:池上昌弘、福永洋一、武邦彦
  • 調教師:保田 隆芳
  • 馬主:トウショウ産業(株)
  • 生産者:藤正牧場
  • 1973年4月15日生まれ 牡馬

TTGの筆頭にして名種牡馬となる「天馬」

抜群のスピードを武器に天馬と称され、ライバルのテンポイントやグリーングラス、クライムカイザーなどのハイレベルな同世代のライバルと戦い続け常に互角以上のパフォーマンスを続けた稀代の名馬である。

父であるテスコボーイはプリンスリーギフト産駒のイギリス産馬で日本に輸入されるとランドプリンス、キタノカチドキ、テスコガビーなど数多くのクラシックホースを輩出しリーディングサイアーに輝くなど、名種牡馬への道を着実に歩んでいた。

母ソシアルバターフライはアメリカ産馬で藤正牧場の期待の牝馬として輸入された。日本で産んだ2頭目の産駒がパーソロンを父に持つトウショウピットで、中山記念など重賞3勝を挙げる活躍。他にもヴェンチア産駒ソシアルトウショウもオークス2着に入るなど重賞級の産駒を輩出していた。これらの産駒も含めて後に藤正牧場の基礎牝系として牧場の発展に大きく貢献する一族となる。

配合としてはイギリスの名種牡馬ハイペリオンの3×4のインブリードを持ち、この割合18.75%は奇跡の血量と生産界で呼ばれていた。

調教師の保田隆芳は8大競走を完全制覇し日本の騎手として初の1000勝を達成する名騎手。調教師転向後すぐに師匠である尾形藤吉からメジロアサマ(マックイーンの祖父)を譲り受け、天皇賞を勝つなどをしていた。トウショウボーイを預かった時点では元名騎手であったが、調教師としてはまだまだペーペーというレベルだった。

出生からデビューまで

牧場の看板牝馬のソシアルバターフライに日本デビュー以来産駒が活躍し旋風を巻き起こしていたテスコボーイの仔であったため、生まれた時から藤正牧場の一番馬として期待を受けた。生まれた時からしっかりとした馬体で動きもよく、育成の段階でクラシックの一つや二つ取るだろうと大きな期待を受けていた。

しかし預かる予定であった調教師の茂木為二は腰の甘い(重心が安定せずにふらふらする。テスコボーイ産駒、及び当トウショウボーイ産駒によくみられる傾向であった)のが気に食わず、まともに競走馬になれるかどうか怪しいと考え受入を拒否してしまう。そのため調教師としては若い保田隆芳の元へ預けられることになった。保田もまた臀部の筋肉の素晴らしさを評価しながらも、腰の甘さのが良くならないと競馬に使えないと考え、2歳(旧3歳)はこの対策に終始することになる。

その治療法として用いられたのが笹針で、文字通り笹のような針をブスッとぶっ刺してうっ血している血を取り出し新陳代謝をよくすることで改善を促すという民間療法である。科学的根拠もないため、競馬先進国の欧米では行われておらず日本独自の療法で今ではほぼ行われていない。

トウショウボーイにとってはこの笹針が大成功したようで12月頃から動きが一変し、調教では寮馬を相手に5馬身遅れていたところが逆に5馬身突き放すほどになっていた。こうして腰の甘さが改善されて能力がフルに発揮できるようになり年明けにデビューする予定となる。

デビューからクラシック前

1月にデビューしたかったトウショウボーイであったが、登録過多の為に除外されてしまった為、1月月末の第2回東京開催でデビューすることになる。この新馬戦も18頭のフルゲートと多頭数であったが、調教の動きが凄まじかったために1番人気に推される。鞍上は保田隆芳厩舎所属の池上昌弘となった。この時代はほぼほぼ厩舎所属の騎手が最初の主戦騎手になる。

割と有名な話であるが、この新馬戦でいきなりTTG内での初対戦が行われる。相手はグリーングラスだ。こちらはこちらで肺炎をこじらせてしまい、トウショウボーイ同様デビューが遅れていた期待馬であった。そしてもう一頭後の重賞勝ち馬がいて、4歳牝馬特別(オークストライアル)を逃げ切るシービークインだ。これはこれで引退後にトウショウボーイとの間に三冠馬ミスターシービーを産む運命の出会いだった。

それらの素質馬を相手にトウショウボーイのデビュー戦はスピードの違いであっさりハナを切るとそのまま楽勝する。グリーングラスもシービークインも相手にならなかった。そのまま2戦目、3戦目と同じように楽勝する。

あまりの勝ちっぷりに関東の競馬関係者もとんでもない馬が出てきたと評価し、クラシックの為に東上してきたテンポイント陣営もまじでやばい馬が出てきたと警戒するようになった。

トウショウボーイ陣営はあまりの強さに皐月賞のトライアルレースを使う必要を感じず、直接皐月賞へ挑むことになる。

クラシック時期の活躍はこちら

こうして一躍クラシックの有力馬となったトウショウボーイはライバルのテンポイントやクライムカイザーと死闘を繰り広げる。

古馬での活躍はこちら

年度代表馬に選ばれたトウショウボーイは晴れて日本一の馬となり、当時のサラブレッドの目標とされこれを迎え撃つ。そして競走馬としての役目を終え引退する。

引退後

秋の天皇賞の頃になるとトウショウボーイの誘致合戦が始まっていた。類まれなスピードを誇るトウショウボーイは人気種牡馬になりそうだと思われたが、当時は内国産種牡馬の評価は外国産種牡馬より落ちるとされていた為に、評価が分かれていた。テスコボーイを繋養している日高軽種馬農協の当時の組合長である斉藤卯助はトウショウボーイを高く評価しており、後継種牡馬として迎え入れたいと考えていた。しかし所詮農協であり上に農林水産省を頂く組織である。個人の意見はなかなか通らず、上記のように内国産種牡馬はしょぼいという考え方を持った組合員も多かったため、説得には骨を折ったが最終的には2億円でオファーすることになった。(当時のダービーの賞金は5200万円)しかし馬主の藤田はさらにふっかけ、2億5000万+テスコボーイの種付け権3年分+トウショウボーイの永久種付け権3株を要求する。当時のテスコボーイの種付け量は100万程度と言われているが、農協の所有馬であり馬産の振興の為に安く設定されていただけで、種付けは大人気の為に常に抽選で自由に付ける事はできなかった。テスコボーイの牡馬が産まれたら高値で売れる事がほぼ確定する為、大変貴重な種付け権とされる。そのためこの要求を正確な金額に換算することは難しいが3億円以上の価値があったのではないだろうか。斎藤は結局この提案を受け入れ、組合員に叱責を受ける事となる。しかし斎藤は強硬ともいえる態度でごり押しし、組合員に抗った。結果してこの判断は間違いなく正しかった。

ここで日高軽種馬農協についてもう少し突っ込むと、農林水産省配下の農協として地域の農業を発展すべく、日高の馬産農家の為に軽種馬の為に活動する半ば公的な団体である。テスコボーイの種付け料が安いのも、公的資金で購入した種牡馬を利益度外視で日高の組合員に提供するという目的であったため、どれだけ神種牡馬であったとしても種付け料は一定以上は値上げせず、人気となった場合は希望者に平等に抽選というルールであった。また、後期には生まれた牡馬は購入機会を均等にするために農協主催のセリに上場するように義務付けられている。

現役を引退したトウショウボーイは天馬っぷりをアピールすべく空輸により北海道へ到着する。初年度の種付け料は60万円と、当時のサラリーマンでも頑張れば捻出できる金額であった。しかし初年度は組合員の反発もあったためか頭数もあまり集まらず、希望するのも血統が悪いか受胎率が低いなどの問題を抱えた牝馬が多かった。2年目以降も同様であまりいい牝馬はもらえなかった。しかしその2年目の繁殖牝馬の中にデビュー戦を共にしてオークストライアルを制覇したシービークインの名前があった。しかしシービークインの所有者は実は組合員でない為、種付けする権利はなかったのだが、担当者がトウショウボーイの為に一流牝馬を付けさせたいと独断でこっそりと許可をだした。

初年度産駒の評判は相手牝馬の血統の悪さもあったためか、売れ行きは芳しくなく抽選馬となるケースも多かった。そんな中2年目からダイゼンキングが小倉2歳Sで産駒初重賞を制覇すると一気に好転する。ダイゼンキングが阪神3歳Sを勝利し、翌年にはシービークインとの仔のミスターシービーがシンザン以来の3冠制覇、抽選馬として安価で取引されたラブリースターも2重賞制覇するなど大ブレイク。特にミスターシービーの3冠は父内国産馬としては初で父の無念を晴らすダービータイトルも得るのであった。ここから一気にトウショウボーイバブルが始まる。

種付け料は最大でも350万円に留められたが、勝ち上がり率や重賞勝ち率の高かったトウショウボーイ産駒はものすごく高値で取引されるようになった。牡馬なら3000万円~、牝馬でも1500万~という感じだ。つまりちゃんと産まれさえすれば1200万円以上の儲けになるガチャであるので種付け依頼は殺到し抽選倍率は最大で9.4倍にまでにいなった。トウショウボーイのおかげで破産を免れたり借金を返済できた牧場も多かったため、2代目「お助けボーイ」と呼ばれるようになっていた。なお、初代はもちろん父テスコボーイである。テスコボーイが種牡馬引退した後はより多くの牝馬が殺到するようになった。

トウショウボーイ産駒はセリでも大人気で3億6050万円が付けられたサンゼウス、2億6500万円のモガミショーウンなど高額馬が多数取引された。サンゼウスの取引価格はエアグルーヴの仔ザサンデーフサイチに抜かれるまで日本のセリでの最高価格となっていた。このトウショウボーイ人気のおかげで以降の日本産馬は種牡馬としても評価を落とさずに高額シンジケートが組まれるケースが増えた。

以降も活躍馬を出すもミスターシービーほどの超大物牡馬は出現せず、ミスターシービーの種牡馬成績も奮わなかったため父系断絶となってしまう。これは日高軽種馬農協の種牡馬であり、抽選で繁殖する相手が決まるために血統の悪い牝馬を相手にすることも多かった。わざわざトウショウボーイのために繁殖牝馬を用意できるのはトウショウ牧場くらいなもので後継種牡馬を出しづらい背景があったと思われる。

リーディングサイアーランキングは常に上位を賑わせ、1990年と1991年にノーザンテーストに次ぐ2位まで上り詰める。この先もさらなる活躍が期待されるも1992年8月にライバルテンポイントの死因となった蹄葉炎を発症してしまい、9月18日に病状が悪化したため安楽死となった。

1984年、顕彰馬の制度が出来ると同時に顕彰馬に選ばれる。まさに日本を代表する競争馬であり種牡馬であった。

総括

10年以上時代を先取りしたスピード馬でトウショウボーイならば現在でも通用すると思われるほどである。グレード制導入後であれば3200mの天皇賞は出ていなかったであろう。ミスターシービーの年から2000mになっていたので秋三冠はこの馬が最初だったかもしれない。また、ニホンピロウイナーあたりとマイルで対決しても面白かっただろう。テンポイントとは2500mで対戦するから接戦になっただけで当時の古馬戦で2000mの大レースが多ければTTGなんて言われなかったかもしれない。反面長距離ではグリーングラスに逆立ちしても勝てなかった。産駒成績を見てもミスターシービーは本質的に中距離馬で長距離は苦手だったようだ。

人気についてもハイセイコー引退後のスターホースを待っていたファンの受け皿として、テンポイントに負けず劣らず人気は高く競馬ブームを牽引した。トウショウボーイとテンポイント引退後は確固たるスターホース不在となり息子のミスターシービー出現時は大いに沸いた。(そのシービーがルドルフにボコボコにされてみんな去っていってオグリで戻ってきた)顕彰馬にあっさり選ばれるあたり名馬としての存在感は当時から際立っていたのだろう。

ウマ娘になるなら

スピード20%スタミナパワー根性賢さ10%
馬場適正AダートC
距離適性短距離CマイルA中距離A長距離D
脚質適正逃げA先行A差しD追込C
スキル:天駆ける 中盤前の方で競り合うと速度アップ

キャラ

2021年11月のイベント「晩秋、囃子響きたる」にてトウショウボーイさんっぽい存在が発見されたのは有名な話だ。同馬主のスイープトウショウが既にウマ娘化されているので障害は少ない。グリーングラスも親類が馬主であるグラスワンダーが実装されている為、あとはテンポイントさえ許可が下りればGOサインが出るであろう。実装の際はオールドファンを取り込むために肝いりでキャラデザインがされるはずである。

なのでトウショウボーイについては外野がとやかく言うものじゃないです。ウマ娘が長く続けばいずれ実装は間違いないでしょう。

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