悲運の貴公子 テンポイント

悲劇の名馬

テンポイント

1970年代の第一次競馬ブームの中で圧倒的な人気を誇った「流星の貴公子」

第一次競馬ブームに現れた関西の期待のホープとして、最大のライバルとなるトウショウボーイを筆頭に同世代の強豪たちと幾多の名勝負を演じた名馬である。また悲劇的な最期は一般紙でも大きく報じられるなど競馬界に多大な影響を与えた、記録よりも記憶に残る馬である。

血統について

  • 父:コントライト
  • 母:ワカクモ(母の父:カバーラップ二世)
  • 主戦騎手:鹿戸明
  • 調教師:小川佐助
  • 馬主:高田久成
  • 生産者:吉田牧場
  • 1973年4月19日生まれ 牡馬

父コントライトはアイルランド産馬で吉田重雄が中心となって輸入しシンジケートを組んだ期待の種牡馬である。テンポイントはその初年度産駒である。

母の父カバーラップ二世は戦後の馬不足を解消すべく競争馬として輸入され、大した活躍はできなかった馬である。しかし吉田牧場で種牡馬となり意外と活躍する。そのうちの一頭がテンポイントの母であるワカクモである。

さて、ここからテンポイントの母系の話になるのだがかなり長くなってしまうが、テンポイントを語る上では外せないので是非読んでいただきたい。出生の段階からかなりのドラマを背負った馬であった。

母の母クモワカは1950年の桜花賞を2着、牝馬ながらに出走した菊花賞で4着など通算11勝と活躍した競争馬であった。しかし1952年に体調を崩したクモワカは馬伝染性貧血症(以下伝貧と略)と診断される。一言で言うとこの病気に罹ってしまったら他の馬にもうつしてしまう代物である。当時は治療法もない(現在もない)為に診断が下された時点で殺処分が確定するのである。クモハタなどの超名馬を含めて例外はなく、この病気と診断されたら処分しなくてはならない。法律でも決まっているのだ。陣営としてもクモワカを殺したくはないが苦渋の決断をする、はずであった。処分を待ち隔離馬房にいたクモワカの症状は回復していき、伝貧の症状も出ておらず決定的な証拠もないために、陣営は診断結果に疑問を持つようになった。国側はとっくに殺処分したと思われていたが、クモワカはこのまましばらく隔離され続ける。そして京都の隔離馬房は増築工事が行われるとのことで、クモワカっぽいよくわからない馬はどっかに行ってくれということで新たな隔離先として北海道早来の吉田牧場へ移送される。こうして吉田牧場に来たのだがせっかく桜花賞2着の名馬なんだから繁殖牝馬と考え、こっそりと種付けをする。その際に伝貧のクモワカであるとばれると血統登録できないということで、丘高という新たな名前で血統登録を申請し一度は受理される。しかし世の中はそんなにうまい事行くわけもなく、この血統は殺されたクモワカだよね?とバレてしまい血統登録を取り消される。ここからゴネまくって結局裁判まで縺れるなどすったもんだした結果、再度クモワカを検査した結果陰性だった場合は血統登録を認めるという判決で収まり、再検査の結果陰性だったクモワカ改め丘高は血統登録が認められる。その間に産んだ子供も競争馬としてデビューできることとなった。その中から活躍馬を多数輩出する。そのうちの一頭が桜花賞を勝ち、テンポイントの母親となるワカクモである。

ワカクモは1番人気のメジロボサツ(メジロドーベルの血統表の一番下にあるメジロ牝系の祖)などを下して桜花賞を制覇し、2着だった母のリベンジを果たすなど通算11勝と活躍した。関係者一同も苦労して血統を残した甲斐があったのだ。当然繁殖入り後も期待を賭けられて、2番仔としてテンポイントが産まれる。本来ならいないはずのクモワカの血統ということで「幽霊の孫」と呼ばれることもあったという。

生産牧場の早来の吉田牧場は古くから軽種馬の生産に携わってきた一族の本家で、現在の社台グループはそこから枝分かれした親戚関係にある。

出生からデビューまで

テンポイントは産まれながらに素直で頭がよく、身体能力も高かったため大きく期待されていた。しかし体質的にはひ弱だったため、牛乳を与えられて栄養補給していた。テンポイントも好んで牛乳を飲んでおり好物だった。その甲斐もあってかデビューする頃にはすらっとした流星が特徴のイケメンで均整の取れた美しい栗毛の馬体の美しい馬と評されていた。

馬主の高田久成は吉田牧場の吉田重雄から電話で「いい馬いるよ、1500万円だよ」と言われそのまま購入する。新聞の見出しに載るような立派な馬になって欲しいということで、文字のサイズを現す「テンポイント」と名付けられた。結果的には新聞の一面を飾るような馬になり、馬主の願いをはるかに上回る事となる。

調教師は幼いころのテンポイントを見て「全身バネのような馬だ」と評価していた栗東の小川佐助に決まる。過去には菊花賞に天皇賞を勝ったニューフォードや皐月賞馬の二ホンピローエースを手掛けてきた中堅調教師である。

デビューからクラシック前

1975年の3月に小川厩舎に入厩し夏の函館でデビューする。調教の動きもよく評判になっていた為、デビュー戦から圧倒的な人気を背負っていたが、レースでも噂に違わぬ能力を見せつけて10馬身差の圧勝、勝ちタイムは函館1000mのコースレコードであった。こんな勝ち方でも騎手の鹿戸明は「調教の動きからこれくらい走ると思っていた」と期待の高さが伺えるコメントを残していた。

陣営も早くもクラシックを意識し、2歳(旧3歳)で3戦のローテーションを組む。次走の条件戦も圧勝し、関西の2歳チャンピオンを決める阪神3歳Sに出走しこちらも圧勝する。この時に実況の杉本清が「見てくれこの脚!これが関西期待のテンポイントだ!」との実況から怪物と呼ばれたハイセイコーに次ぐスターホースとして高い期待が込められていた事が分かる。特に関西の競馬界では関東の方がレベルが高いとされた時代だったために、打倒関東馬筆頭として栗東一丸となってテンポイントを応援するような雰囲気であった。

この勝利を受けて最優秀3歳牡馬に選ばれる。こうして名実ともにクラシック候補となったテンポイントは翌年のクラシックに向けてしばし休養となる。あまりの期待度から古馬になってからは海外遠征という気の早い話も持ち上がっていた。

クラシック時期の活躍

テンポイントのクラシックシーズンの活躍についてはこちらを参照

高い期待を背に東上したテンポイントだったが、終生のライバルであるトウショウボーイが現れるなど本番ではいろいろあって結果を出せなかった。菊花賞でトウショウボーイに雪辱したがグリーングラスに敗れ、年末の有馬記念でまたまたトウショウボーイに敗れるなど、結局無冠に終わってしまった。実力はあるのにタイトルには無縁だったことから「悲運の貴公子」と呼ばれる事もあったという。

古馬となったテンポイントは当初予定されていた海外遠征はトウショウボーイに勝って日本一になってからということで、手始めに天皇賞に挑むことになる。

古馬での活躍から日本一になるまで

テンポイントが古馬になってから大活躍するのはこちらを参照

古馬になったテンポイントは無冠に終わったクラシックシーズンのリベンジを果たし、天皇賞春に有馬記念を勝つなど7戦6勝で年度代表馬に選ばれる。宿敵のトウショウボーイも打ち破り名実ともに日本一となる。トウショウボーイは有馬記念で引退した為もはや国内に敵もいないということで翌年には念願だった海外遠征プランを正式に発表するのであった。

粉雪舞う日経新春杯

有馬記念を制覇し年度代表馬になって念願の日本一の競争馬になったテンポイントは海外遠征を発表する。向かうはイギリスでここを拠点としイギリス最高峰のレースであるキングジョージ6世&クイーンエルザべスS、フランス最大のレース凱旋門賞、アメリカで行われる国際レースのワシントンDC国際招待に挑むプランだ。テンポイント陣営をよく知る者たちは宿願である事をしっており日本競馬の至宝が海外で大活躍する姿を見たいと同じ夢を抱いていた。ただ多くのテンポイントファンは最後に日本で走る姿を目に焼き付けておきたいと陣営に要望を出し、壮行レースとして日経新春杯に出走する事となる。

テンポイント以外のメンバーは昨年の同レース勝馬ホースメンホープ、暮れの阪神大賞典勝ちのタニノチェスター、気まぐれエリモジョージ、条件上がりの軽ハンデ馬ジンクエイトと関西の中堅どころが集まり、正直テンポイントと比べると格下ばかりが集まった。ただしこのレースはハンデ戦であり出来るだけ対等な条件で走らせるべくテンポイントは66.5㎏ととんでもない斤量を背負わされることとなる。2番目に重いのは60㎏の天皇賞馬エリモジョージとこれでも十分重いのだがそれよりも遥かに重くサラブレッドがレースで背負うような斤量ではなかった。しかし陣営は去年の秋にこのような筋トレをテンポイントに課しており、内心で不安はあったもののギリギリセーフという事で出走に踏み切る事になる。

1978年1月22日京都競馬場、レース当日は粉雪が舞う良馬場で行われた。関西のファンは国内最後のレースとなるテンポイントの雄姿を一目見ようと多くのファンが詰めかけていた。レースは福永洋一鞍上のテンポイントが先頭を走り、他の馬が追いかける形で進む。途中競りかけられたりするも第4コーナーでは手ごたえもよくこのまま突き放し始めようとするところで、テンポイントの後ろでレースを進めていた福永洋一騎手がボキッという不穏な音を聞いてしまう。それはテンポイントの左後ろ脚から発生した音であった。悪夢の競走中止となる。

闘病生活の果て

テンポイントの故障は重度の骨折であり、通常であれば即座に安楽死となるものであった。しかし馬主の高田は即断しなかった。一夜明けると一般紙でも一面から三面見開きで取り扱われるなど大ニュースとなり、多くのファンからも助命嘆願の電話が鳴り続けた。テンポイント陣営も気持ちは同じで出来る事なら種牡馬にしてやりたいと、わずかな可能性に賭けて治療に踏み切った。

日経新春杯の翌日の1月23日、33名の医師団により2時間の手術が行われた。患部をつなぎ合わせてボルトで固定、その後ジェラルミン製のギプスで固定するという大手術は一時は成功したかに思われた。テンポイントも術後は体調を崩すも持ち直した為、一同が奇跡は起きたと安堵した。しかし後に患部を固定していたボルトはテンポイントの体重を支える事が出来ずに折れ曲がっており手術は失敗していたことが判明する。そしてなす術なく容体は悪化していき、1978年3月5日テンポイントは蹄葉炎を発症して死亡する。最後まで安楽死は行われずに自然死であった。

テンポイントの功績

テンポイントの死後は生まれ故郷の吉田牧場に土葬され、現在も墓参りに訪れる競馬ファンが絶えない。

本当に悲運の貴公子となってしまったテンポイントは生前から人気は凄まじかったが、死後も未だに語り継がれ稀代の名馬として取り扱われている。

以下にテンポイントがきっかけとなり競馬界に影響を与えた事象を列挙する。

  • 栗東に坂路コースが設置され、関西馬の躍進のきっかけとなる。
  • ハンデ戦で一流馬が出走しても過酷な斤量とならないように調整される。
  • 気軽に海外の一流馬と対戦する機会を設けるためにジャパンカップが創設される。
  • テンポイントのファンがパドックに横断幕をかけた事がきっかけで以降他の馬でも横断幕がかけられるようになる。
  • 医療が発展し、重度の骨折でも競争に復帰できるまで回復するケースが増える。
  • 杉本清が個人的な思い入れを実況に取り入れても文句を言われない名物アナウンサーになる。

このように競馬界やファンに多大な影響を与えた功績が認められ、先に選ばれていたトウショウボーイに続き1990年顕彰馬となる。

弟キングスポイント

テンポイントの死後、1979年に弟のキングスポイントがデビューする。偉大な兄を持つこの馬はテンポイントの無念を晴らすべく期待を賭けられるが、残念ながらそんなに強くなかった。デビューから7戦連続で1番人気に推されるも勝ったのは未勝利戦の1勝のみ。その後も人気を背負っては善戦止まりという結果でクラシックに出走することもかまわず、兄より優れた弟はいないと期待を裏切ってしまう。

しかし、平地を諦めて障害レースに転向してからは一変、連勝に連勝を重ねる。入障してから5連勝、2着を2回続けて5連勝とそこには障害最高峰のレースである中山大障害を含め障害重賞4勝の快進撃を見せる。兄とは違う舞台で覚醒し弟は弟ですごい事を証明して見せた。

障害で勝過ぎた為斤量が重くなりすぎるので兄と同じ悲劇を避けるためか、覚醒した今なら平地でも勝負になると思われたのか、兄も制した京都大賞典で久しぶりの平地レースに出走する。しかし世の中そんなに甘くなく10着に敗れる。距離が足りなかったと判断されたのか秋の天皇賞にも挑戦し、勝ったメジロティターン(マックイーンの父)から1.1秒差の8着となる。

その後は障害に戻り秋の中山大障害を勝利して春秋連覇を達成。堂々たる成績でこの年の最優秀障害馬に選出される。

しかし左膝を骨折してしまい、長期休養となる。復帰戦は勝利したものの暮れの中山大障害は1番人気で4着に敗戦。この翌年の春の中山大障害では水濠障害の板に右脚を打ち付けてしまう。気合で3本脚のまま次の障害までは飛越するも力尽きて競走中止。この時の怪我が右足根粉砕骨折であり予後不良と診断されてしまう。こうして偉大な兄と同じくターフに散ってしまうのであった。

総括

現役を知らない世代ではテンポイントをただの悲劇の名馬で終わらせてしまいがちだが、現役時代を知る人間にとってはハイセイコー並のアイドルホースであった。だからこそ骨折の際には1日後に33人の医師を集めて手術に踏み切る事が出来たし、テンポイントほどの馬が春のクラシックで結果を出せなかったことにより栗東に坂路コースが作られた。テンポイントという馬はものすごい発言力や政治力を持っていたのである。しかし人気ゆえに過酷な斤量で日経新春杯に出走することになり結果として死につながってしまったのはなんたる皮肉か。競走能力としてはライバルのトウショウボーイの方がやや優勢、特に中距離戦では敵わない存在だったが長距離戦では逆転した。有馬記念では1勝1敗だったのがお互いの距離適性の範囲内でイーブンな勝負が出来る距離だったのだろう。他のライバル相手には状態が悪くない限りは負けていない。その中でもグリーングラスだけはTTに近づいた存在であり、敬意を払わないといけない。

近年で比較されるのはサイレンススズカだが、メジャーとなってから全盛期までが半年程度なのに対してテンポイントは2年余り一線級である。怪我をする前のレースが伝説となっている点も同じ。サイレンススズカの人気が2年間蓄積され続けて、直前のレースで悲願を達成したと想像するとそのショックの大きさが分かると思う。

ウマ娘になるなら

スピード10%スタミナ10%パワー根性10%賢さ
馬場適正AダートG
距離適性短距離EマイルB中距離A長距離A
脚質適正逃げB先行A差しC追込G
スキル:貴公子の幻影 終盤のコーナーで競り合うとスピードアップ

キャラ

遺伝的に病気がちで儚い印象を与える絶世の美女。存在感は絶大で栗東寮の影のボスとして君臨し我儘言うとみんながなんとかしてくれる。なお、本人は特に気取らず賢くちょっと品の良いところのお嬢様といった性格。どちらかというと優等生タイプだが何故か周りがちやほやしてくれる。タニマチのおじさんがいっぱいいて名物アナウンサーもお気に入りでとにかく誰からも好かれてしまう天性のアイドルちゃん。栗東寮には舎弟もいっぱいいる。

能力はエリートウマ娘達に混ざるとまあまあだね、といった感じに納まる。勿論ライバルはトウショウボーイちゃんでありここだけはバリバリにライバル意識を全開にする。

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