昭和39年 三冠馬シンザン

この年のクラシックはシンザンが全て掻っ攫っていきました。なので昭和39年=シンザン3冠達成の年としてシンザンをメインに取り上げさせていただきます。シンザン以外の馬についてはシンザンのライバルたちを参照してください。

シンザンのプロフィール

  • 父:ヒンドスタン
  • 母:ハヤノボリ(母の父:ハヤタケ)
  • 主戦騎手:栗田勝
  • 調教師:武田文吾
  • 馬主:橋元幸吉
  • 生産者:松橋吉松
  • 1961年4月2日生まれ 牡馬

昭和中期に生まれた日本競馬史上最も偉大な馬。またの名を「神馬」

当時出走可能な大レースを全て制し、生涯を通じて連対を外した事の無い安定性を誇る超名馬である。なお、生涯19戦15勝2着4回と19戦連続連対記録は未だに破られていない、というか破られる可能性の低い日本記録である。

父であるヒンドスタンは1955年にアイルランドから輸入されてきた種牡馬で日本に来て活躍馬を多数出しシンザンが産まれた当年にリーディングサイアーを獲得する。シンザンを輩出後も名馬を輩出し続け合計7回のリーディングサイアーに輝き、500頭弱の産駒で通算重賞勝ちは113勝。重賞の少ない当時としては圧倒的な成績を挙げていた。(参考までにサンデーサイレンスが約1300頭で重賞311勝)

母ハヤノボリは中央5勝、母の父ハヤタケは戦時中に現役を走り菊花賞に相当する京都農林省賞典四歳呼馬を勝利した内国産馬。母系を辿るとビューティフルドリーマーに繋がる名門であり、シンザンの兄オンワードスタンは中山記念、兄リンデンは京都4歳特別を勝つなど活躍していた。

武田文吾は京都でナンバーワンの名伯楽、主戦の栗田勝は名人と呼ばれ武田文吾厩舎のエースであった。

馬主の橋元さんは運送業経営者、シンザンを購入するはいいが本業の資金繰りのために何度か手放そうとするも全て未遂に終わる。

出生からデビューまで

生まれ故郷の松橋牧場はとても小さい牧場であった。幼名は「松風」でなんとなく風格のあるデカ馬になりそうだったが、当時のシンザンは見栄えのしない小柄な馬だったという。それでもシンザンは当時でもかなりの良血であり、生後2か月の頃に牧場を訪れた武田文吾に320万円で購入される。現在の価値でいうと約4000万円ほどと結構なお値段である。あっさり購入が決まったのは兄であるオンワードスタンを所有していた馬主が購入する予定だったからである。しかし馬主となる橋元幸吉が松橋牧場を訪れた際にシンザンに一目ぼれし購入を決定。こうして馬主と所属先が決まる事になる。

名前は武田文吾の孫、栗田伸一から伸の文字に山をくっつけて「伸山=シンザン」となった。育成は武田文吾の希望により荻伏牧場で行われた。

デビュー前に本業で資金が必要となった馬主の橋元さんはデビュー前のシンザンを売ろうとするが、武田文吾の猛反発により御破談となる。デビューするまではお金かかるから仕方なし。

デビューからクラシック前

1963年に京都の武田文吾に入厩予定であったが、当時の武田文吾厩舎は16頭の新馬が入厩する予定となっており、育成中はあまり動きの良くなかったシンザンは後回しにされ、阪神競馬場の空き馬房に入ることになる。この時の武田文吾厩舎の期待馬はオンワードセカンドであり、2歳時のローテーションはオンワードセカンドが優先されていた。また、シンザンを担当する予定だった厩務員はみすぼらしいシンザンを嫌がり、オンワードセカンドを担当する予定だった中尾謙太郎と激しい交渉の末、担当馬を交代することとなった。

そんなシンザンもデビュー戦が決まりかけるが、そのレースに関東の素質馬ウメノチカラが出走予定だと武田文吾が察知する。名伯楽の武田文吾は勝算が薄いとみてデビューを翌週に延期し、見事4馬身差で勝利する。さすがは名伯楽。

次のレースも連勝したシンザンは2歳の重賞阪神3歳S(当時の3歳=現在の2歳)に進もうとするが、武田文吾厩舎からはオンワードセカンドとプリマドンナが出走予定の為、裏番組の3歳中距離特別(阪神1600m)に出走することになり見事に勝利する。なお、阪神3歳Sはプリマドンナが勝利し武田文吾厩舎的には使い分け成功となる。その頃、ライバルとなりそうなウメノチカラは朝日杯三歳Sを制覇する。

鞍上の栗田勝はシンザンの強さを見抜いており、武田文吾厩舎の他の有力馬よりシンザンの方が上だと認識していた。しかし武田文吾の評価は上がらず、オンワードセカンドの方がクラシック候補という認識であった。その為ローテーションはオンワードセカンドが優先され、シンザンは裏街道に回されていた。

3歳(当時4歳)となったシンザンは年明けのオープンも勝ちデビュー4連勝を飾る。しかし、裏街道を歩んでいたためにクラシックの有力馬には挙げられていなかった。

また、この頃には後ろ脚の踏み込みの強さから前脚にぶつかるようになってしまい対策が必要となっていた。このまま放置していれば故障に繋がる為、試行錯誤した結果がシンザン専用の蹄鉄、シンザン鉄である。後ろ脚側にスリッパのようなカバーをつけ、前脚側にT字の部位をつけて強度を補った。その為通常の蹄鉄の2倍くらいの重さになってしまった。

春のクラシック戦線

シンザン鉄が完成するまでの間はしばし休息したシンザンはクラシックシーズンに向けて東上する。この頃は馬運車で直接移動するのではなく、汽車で貨物便として運ばれる。輸送の負担もあり調教も走らない為に東上初戦のスプリングSは6番人気と低評価だった。ウメノチカラをはじめ関東のクラシックの有力どころと初対戦となり、4戦4勝とはいえ強い相手と戦っていないシンザンの評判はあまり高くなかったのだ。しかしレースになれば関東馬達を一蹴し勝利、一躍クラシックの最有力候補となる。なお、一緒に東上してきたオンワードセカンドは調子を崩し東上初戦は惨敗してしまう。この結果により武田文吾は考えを改め、シンザンが一番強いと認識するようになる。

25頭立ての皐月賞は1番人気シンザン、2番人気は関西馬のアスカ(阪神3歳S2着)、3番人気は条件戦を連勝していたクリベイであった。シンザンは先行抜け出しの王者の競馬で追い込んできたアスカを封じ切り一番人気に応えて完勝。3着はちょっと人気を落としていたウメノチカラであった。鞍上の栗田はこの皐月賞の勝利でシンザンは三冠を狙えると自信を深める。

ダービーの有力馬となったシンザンはもう無理をすることはない。他の馬が必死にNHK杯で実力を示そうとしている中(勝馬はウメノチカラ、オンワードセカンドが5着、アスカ6着)調教代わりにオープンに出走する。ここで圧倒的1番人気を背負い2着に敗れる。調整だから仕方ないがデビュー以来初の敗戦となる。これはシンザンが調教では手抜き癖がある為レースで調整するようになり、この後もたびたびこのような敗戦をするようになる。馬券を買う方からしたらたまったもんじゃない。

27頭立てのダービー、前走で初の敗戦を喫するもシンザンは圧倒的な一番人気に支持される。2番人気はNHK杯勝ちのウメノチカラ、3番人気は皐月賞2着のアスカ、地味に初対決となるオンワードセカンドは8番人気の低評価だった。他頭数のレースでは器用に立ち回れる先行馬が有利で、シンザンはスタートからあっさりと5番手につけることに成功、好位置につけたまま直線を迎えるとあっさりと抜け出し、粘るウメノチカラを力でねじ伏せ1馬身差をつけ勝利、シンザンに差をつけられながらも地味に頑張ってきたオンワードセカンドはさらに4馬身離された3着に入線した。こうしてシンザンは世代の頂点に立つことになり、秋の菊花賞で三冠に挑むことになる。

そして三冠へ

見事ダービー馬となったシンザンは京都に凱旋する。今では有力馬の夏は北海道で避暑するのが半ば常識だが、この時代は昭和の中期である。シンザンは気合と根性で京都の暑い夏に挑むのだ。それはレースよりも厳しく体力を削られ、見事に夏負けとなるのであった。東京オリンピックのあったこの年の夏は例年にも増して猛暑で碌な冷房器具も無かった為、シンザンは夏に大惨敗を喫し体調を崩してしまう。武田文吾はや厩務員の中尾謙太郎がでっかい氷と扇風機で頑張って涼ませてなんとか涼ませようと努力をし、8月頃には徐々に体調戻していった。なお、ここで使った氷代は1月に20万円程度、ダービーの賞金は900万円の時代なのですっごいコストがかかっていたのである。

夏負けの影響もあり復帰戦は10月からとなり、とりあえず調教代わりのオープンでは2着に敗戦する。ここまでは予定通りだが続く京都杯(菊花賞トライアルの頃の京都新聞杯)もバリモスニセイの2着に敗れててしまう。ここで多くの人はシンザンが体調を崩したままと考えてしまったのか、本番の菊花賞では2番人気に甘んじる事となる。1番人気はセントライト記念を勝つなど、秋に調子を上げてきたウメノチカラである。また前年の2冠馬メイズイが圧倒的1番人気を背負って爆死していたため、調子落ちのシンザンが三冠達成するのを怪しむ人が多かったのだろう。

レースは同じく3冠がかかる同期の2冠牝馬カネケヤキが逃げを打ち、シンザンはいつも通り好位につけ、ウメノチカラはその後ろ。向こう正面ではカネケヤキが2番手以降に大差をつける大逃げとなるもシンザンは全く動かない。動いたのはウメノチカラで4コーナーで逃げるカネケヤキを捕えにかかる。シンザンの3冠はもうだめかとおもわれたところで最後の直線、ギリギリまで我慢していた栗田勝の合図でシンザンが猛追、一気にウメノチカラも抜き去り2馬身半の差をつけ完勝、見事三冠達成となる。2着はライバルウメノチカラ、3着は同厩舎のオンワードセカンド、5着にカネケヤキが入った。

こうしてセントライト以来史上2頭目、戦後では初となる3冠馬となったシンザンであったが、菊花賞に至るまでの臨戦過程には無理があり疲れも出ていた為に有馬記念へは進まずにそのまま年内休養となる。3歳馬代表としてウメノチカラが有馬記念に出走するもその年の天皇賞馬ヤマトキョウダイの4着に敗れ古馬との力の差を見せつけられる結果となった。

3冠を制した功績が称えられ、シンザンは1964年度年度代表馬となる。

古馬になって

古馬となったシンザンは当然のように天皇賞を目指すことになる。しかし年明けから蹄に炎症が出るなどして体調を崩した為、春の天皇賞は諦める事となる。また、この当時はアサホコという馬が重賞4連勝と飛ぶ鳥を落とす勢いで快進撃を見せていた。春の天皇賞はシンザン世代のオンワードセカンドやバリモスニセイ、アスカがアサホコに挑んだが全く相手にならずにぶっちぎられる結果となる。この結果から4歳世代の総大将シンザンがアサホコに挑んでも負けていたかもと言われるほどであった。

シンザンは天皇賞を回避した後は宝塚記念を目標に調整される。当時の宝塚記念はファン投票レースではあったが、8大競走より賞金も安く大レースとして認知されておらず、関東馬アサホコは京都の天皇賞を勝った後は地元の関東に帰っていった。オープンを2連勝し挑んだ宝塚記念ではバリモスニセイ以下を相手にせずいつもの省エネ競馬できっちり勝ち切りシンザン健在を見せつける。現在の尺度でいうとシンザンはG1を6勝相当となるが、当時の宝塚記念は格下だったため、シンザンは5冠馬である。

その後は京都で夏休みを過ごす。前年の苦労もあった為事前に暑さ対策を施していたためこの年は夏負けすることもなく順調だった。

阪神のオープンを勝ったあとに東上する予定だが、関東で伝染性貧血病が発生したために移動禁止、阪神競馬場で足止めとなる。ローテーションが狂ってしまったため予定を変更しハンデキャップ重賞の目黒記念に出走する。この時のハンデは63㎏と酷な斤量となるが昔の馬はそこまで気にせずに出走。58.5㎏を背負った前年の天皇賞馬ヤマトキョウダイや61㎏を背負ったミハルカスを寄せ付けず勝利する。

続く天皇賞では加賀武見鞍上のミハルカスが大逃げをしてシンザンを揺さぶるもシンザンは動じずに直線で大外を通って抜け出すと2着ハクズイコウ(翌年春の天皇賞勝利)に2馬身差をつけて完勝。単勝は100円元返しであり圧倒的な支持に応えた。

引退の有馬記念

天皇賞も勝った為に国内でシンザンの出走可能な大レースは有馬記念だけとなった。武田文吾は確実に勝利し完全無欠の神の馬にするために、未経験の中山競馬を経験すべくシンザンを有馬記念の1週前のレースに調教替わりに出走させようとする。乗るのは主戦の栗田勝ではなく見習いで武田文吾の息子である武田博騎手。通常なら63㎏背負わされるところを平場のレースであれば見習いの3㎏減で60㎏で出走できるため見習い騎手を起用するのである。しかし主戦の栗田勝はシンザンほどの名馬にそのような経験も必要ないとし、これだけの名馬を連闘で有馬記念とか馬鹿げていると猛反発。実際にそのオープンに2着に負けると栗田勝はそれいったことかと大荒れに荒れる。調整ルームを飛び出し飲み屋で飲んだくれた挙句病院送りになる。こんな事をされたら本番の有馬記念でも鞍上を任せられないと武田文吾は激怒、弟弟子である松本善登が引退レースの有馬記念に乗る事になった。

有馬記念は天皇賞のメンバーに前年の勝ち馬ヤマトキョウダイを加えたメンバー。特に相手もいないが、前週の敗戦もあり若干の不安を煽られたのか単勝は1.1倍と人気をやや落とす事に。レースは加賀武見のミハルカスが秘策を使う。この時期の中山競馬場は内の馬場が荒れまくり。ここにシンザンを誘導すべく、天皇賞とは違い溜め逃げに転じて直線の入り口で大きく外に振り出す。後ろのシンザンは進路を内側に封じ込めてその末脚を封じる作戦だ。しかしシンザンは自らその外側の進路を選びテレビ中継の画面の外から鋭く追い込んで差し切り勝ち。引退レースにしてシンザンの強さが際立つレースとなった。こうして文句なしの2年連続となる1965年度年度代表馬にも選ばれる。引退式も東京と京都で2度行われ、完璧な現役生活を終えて谷川牧場にて種牡馬入りとなった。

引退後

いくらシンザンといっても種牡馬生活は甘くはなかった。この当時は日本の馬は格下で外国から輸入してきた種牡馬こそ至高という風潮があった。一流の牝馬には一流の輸入種牡馬が宛がわれ、シンジケートを組むこともできなかったシンザンの元に集まったのは実績のない二流の繁殖牝馬ばかりであった。しかしその逆風にも関わらず2年目産駒からシングン、3年目産駒からスガノホマレとシンザンミサキ、4年目産駒からシルバーランドなど重賞勝ち馬がコンスタントに出現。シンザンはやっぱりすごいという事になり人気は徐々に上昇。内国産種牡馬の見直しのきっかけになり、1972年以降は1980年にアローエクスプレスに抜かれるまでは内国産種牡馬のトップとして君臨した。種牡馬のシンザンも時代を変えるほどの実績を残したのである。

それでも8大競走やG1級の産駒はなかなか出現しなかったが1981年にミナガワマンナが菊花賞を制する。その頃にはシンザンも結構な年ではあり、ミナガワマンナはシンザン最後の大物などと言われたが真打はその後に登場する。クラシック2冠に天皇賞も制覇するミホシンザンである。最後の最後に後継者を出したシンザンはミホシンザンが天皇賞を制した1987年に種牡馬引退。余生を送ることになる。内国産種牡馬で重賞49勝はトサミドリに次ぎ当時2位、1969年~1992年まで中央競馬で勝利はノーザンテーストに抜かれるまで当時1位であった。

種牡馬引退後もシンザンの威光は続き、今度は長寿記録に挑戦する。同期の牝馬カネケヤキも長生きしたが、シンザンは歯が無くなり目が見えなくなり幾度と倒れる事になっても周りの人間に支えられ、窮地に陥っても抜群の生命力で盛り返し35歳102日まで生きた。これは当時のサラブレッドや、アラブを含む軽種馬も含む長寿記録であった。こうして当時の馬としては出来る限り全ての記録を更新しつくして生涯を終える事になる。

総括

シンザンを一言で表すならレジェンドオブレジェンドである。当時の大レースは全て制しており、不調でも結果を残し調教代わりにレースに出ても惨敗はしない。かといって圧勝することもなく、きっちり勝ち切るだけの能力と賢さを兼ね備えている。シンザンの前に並ぶ馬もいなければシンザンの後に越える馬もいない。それくらい当時では飛びぬけた馬であり、シンザンが3冠を達成してからシンボリルドルフが出現するまでの20年間はまともに比較される馬も出なかった。シンザン以降はシンザンを越えろが競馬会の合言葉となり切磋琢磨してきたが、5冠はおろか8大競争を3つ勝つ馬も片手で数えるほどである。

ウマ娘になるなら

スピード10%スタミナ10%パワー根性賢さ10%
馬場適正AダートG
距離適性短距離DマイルC中距離A長距離A
脚質適正逃げD先行A差しA追込E
スキル:鉈の切れ味 直線で前の方にいるとものすごく速度アップ

キャラ

レジェンドオブレジェンドなのでルドルフ他の重鎮も頭が上がらない存在である。身体能力も頭脳も明晰だが、本人は調教もさぼりがち、レースでも手を抜きながら相手なりに走る。実力者であるがゆえに適度に負けて真の実力をカモフラージュする。強そうな相手には勝負を避ける事もあるが勝てないからではなく、実力を悟らせないためである。そして勝つべきところではきっちり勝ち切る。ただ、嫌な事があると飲んだくれて暴れてしまう悪癖がある。自慢の靴は特注品、普通の蹄鉄では耐えられないからだ。

本人は実力を隠しているつもりだが周囲からはだだ洩れである。実力あるウマ娘からはシンザンさんを越える事を目標にされ、本人はせいぜい頑張ってとマイペースで偉業を達成し続けるのだ。

シンザンのライバルたち

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